クリエイティブ
Date2026/07/21私は何か、とても良い体験があるとなんとしてでも記録に残しておきたいと思う性だ。
その時の感情というのが、もう二度と戻ってこないと知っているから、本当に急いで残したくなる。
今回もそうやってエディタを立ち上げた。そしてふと思う、最近こういう瞬間はずいぶん減ってしまったなと。
今朝、ずいぶんと彩度の高い明晰夢のようなものを見た。
表現が難しいのだけれど、自分が寝ているという感覚はあって、今まぶたを開けさえすれば起きることができるということを実感としてわかっている状態。
でも、夢の中の体験も同じくらいリアルで、そこに没頭している自分もいる。そしてそれは、自分がいつの日か創り上げた幻想的な世界。
子供の頃に親がやっているゲームを覗き見して、そのときの自分が勝手に想像した世界みたいな、とりとめもなくて非現実的なのに、なぜだか自分にとってはひどく懐かしく、そしてずっと心に残っている箱庭のような場所がある。
普段こうして生活している時は、全くそれが意識に登ることはないし、むしろ思い出そうとしても難しく、ほとんど覚えていないようなもの。
けれど、夢の中で実際にその場面に立ち会うと、「ああ、私はこれを知っているんだ。約束があったんだよな。」と、夢の中で交わした契りをどうしてか自然に思い出すものだ。
夢の世界だと、次々と目の前で不思議なことが起こっても、それが不思議だと思わない……と言うのはよくある話だが、それとはちょっと違うような気がしている。
そこに世界観があって、そこにいる自分は常に同じ価値観を背負って生きているというイメージ。言われなくともルールは決まっていて、毎回同じ心持ちで対応できるというか、幼いころに決めたルールに純粋に従えているというか、そんな感じ。
とにかく、数十年と生きてきた中で更新されてきた価値観もろもろのルールとは全く違う場所で、世界のルールはこうなっていて、私はこう振る舞い、そこにいる他人はこう振る舞うんだろうなと、その感覚が昔のままあるということ。
平たく言えば、純粋であれる時間ということなのかもしれない。
何かのきっかけでよく見ると言えば、昔からやっていたRPGのゲームの世界観に入り込むという夢。
Soul of the Ultimate Nationというゲームで、親の影響で10歳にも満たないくらいの頃からやっていた。それこそ最初の方の記憶はすごく曖昧で、そして理想的な世界だった。
ゲームにはβ版だったり、もう存在しないバージョンというのがたくさんある。そしてその一部は、本当に体験したのか、自分の創り上げた想像だったのか、それもわからないくらい記憶の奥底にある。
けれどその幼少期に創り上げた世界が、なんだかずっと脳裏にこびりついて忘れられない。きっとその世界が好きなんだと思う。脚色も曲解も、あらゆる私見を詰め込んだありえない世界のはずなのに、心から愛おしく思える。
いくつか覚えている夢には一貫性があるようで、ほとんどがそういう、昔に創り上げた世界であることが多い。
特にゲーム好きだったから、存在しないステージだとか、夢の中にだけいるフレンドだとか、そういう世界でいつも同じことをする。いつも決まり切ったオチがあって、私はいつも新鮮にそれに感動する。夢から醒めて、やっと同じ夢だったと整理がつく。
最近の日常を反映した夢だったら、だいたいルールが決まっていなくて、目の前で不思議なことが起こり続けるだけであり、それを何度も見るということはあんまりない。やっぱり何度も見てしまう夢というのは、きっともう形作られた宝石みたいな記憶なんだと思う。
それでもたまに、見たことのない続きを見ることがある。アニメのオープニング曲にCメロをつけたときみたいな、心からワクワクする瞬間があって、今日みたいに日記を書きたくなることがある。
本当にそのまんま書きのこしてみると、こうなる。
「懐かしいいつものゲームの中に入り込み、少し俯瞰した視点で街を眺めている。昔あって、今は無くなった情報が混ざった世界で、輪郭ははっきりしていないんだけど、誰かと一緒に狩りをして楽しんでいる。
そのうち少しだけ現実のギルドメンバーを思い出し、会話をする。『久しぶり、あの子ギルドから抜けたわ。』いつも通りぶっきらぼうなギルドマスターのしゃべり方。何年ぶりにあったとしても感情がすっぽぬけてて、事実だけ吹っ掛けてくる感じ。別に気にも留めないけれど、久しぶりに戻ってきたんだからもう少し歓迎して欲しいなとも思うけれど。
『そういえば、新しいマップ出るらしいですね。』私はチャットで語りかける。そう、ついに新しいマップが開かれるのだ。騎獣に乗り、私は山の向こうへと走り出す。もう十数年もやっているゲームに、ついに新しい大陸がやってくるのだ。
道すがら昔のことをふと思い出す。『そういえばトリンゲルとサピル湖って、昔はつながってましたよね。覚えてます?』自慢げに私は、フレンドがきっと知りもしない昔の知識を披露する。そう、あの頃を知っている人はどれくらいいるんだろうか。急に回想がやってきて、それを語り合うことができた仲間が居たようなことを思い出した。あれはいったい誰だっただろうか。大切な人だったような気もする。
今はずいぶんと整備された世界になってしまった。レベル上げも楽になって、課金するだけでどんなモンスターも倒せる世界に。でも昔はもっと、大人数で狩りをして、そういえば親に苦痛の墓地に連れてってもらったこともあったよな、レベリングするっていって、子どもの頃の私が勝手に動くもんだから色々注意されて。
そんな未熟だった頃のゲームがやりたい……いや、きっとそう思っていたのはあの頃だったからなんだろう。今はどんな素晴らしい体験をしても先が見えてしまっているような気がして、体験を先取りして評価してしまう。きっと同じことをしたって、ああ懐かしいなって、一瞬湧きたつけれどこんなもんかって、がっかりしてしまう気がする。だからずっと、あの時は楽しかったなって、光も影も曖昧な、やたらめったら彩度が高いだけの、あの世界はずっと残しておきたい。
しばらくこの世界に浸っていたい……けれど起きようと思えば起きれる……この世界に没頭する意味もないけれど、ただただ自分が幸せな状態でいてもいいよな……うーん……」
とりとめがなさすぎるけれど、そんな感じだった。書き起こしてみると状況が飛びまくっているけれど、自然な心の動きだったような気がする。もともと私の心は移ろいやすい。
それで結局、この世界にずっといる意味はあるのかという問いが膨らんできて、これを書き残すことが至上命題であるという意見が勝ったから、私は起きて朝の5時に眠い目をこすりながら文章を書いている。
この記録には何の意味もないのだけれど、ただただ記録したかった。最近はこういう瞬間が少なくなってきているから、より一層に、大切だと思って。
こういう夢を見た時は大抵眠りが浅く、3~4時間しか眠れていないことがほとんど。けれど、この状態に入ってしまうと普段はありえないような妄想が次々と具体的に目の前に渦巻いてきて、本当に眠りに就けなくなる。
脳内でずっとカラフルな渦巻きがくっきり見えていたこともある。とにかく脳が錯乱している。ブレーキの利かない方向に脳が活性化していて、芸術は爆発してしまっているというか、そんな感じ。
こうなるとお手上げで、起きるしかない。起きたらすぐに全部忘れてしまって、すぐに現実に溶け込んでいけるのだけれど、それがもったいないなと思って、ついつい意識的に引きずってしまうことも多い。
医学的にこういうのは解明されているんだろうか。何か名前があるなら知りたいなと思う。
ここまでずっと具体性の無く、何にも生産しない話をしてきているから、どうしてこれを書こうと思ったかについて一応触れてみる。
何か理由をつけるとすれば、私は常日頃から意味のあると思っている物ばっかりに振り回されて、こういう原体験みたいな意味のない感動をないがしろにしすぎているのではないかという日常に警鐘を鳴らすためだ。
今はあれをするよりこれをすべきなんじゃないか、メリデメは、意味は、将来性は、客観的に見てどうなのか。
自分の行為一つ一つに対して、誰かが見ているような感覚になって、そういう思考に負けてしまうことが最近多くなってきている。自分の意志で自分を決定できない。見えない何か、と言いつつも自分自身が、自分を阻んでいる。
こういうのは、もはや今の状態に依存するものだと思っている。「私はいま、客観視というつまんない状態に入っている」という客観視をすることはいくらでもできるのだ。学んだから。
でも、今やっていることに意味がない、ということに対して「意味がないけど私が楽しいから大丈夫!」と言い切れるかどうかは、心理状態によって毎回違う。知っているけれどできない。そこには、学習とか経験とかじゃなくて、単なる状態しかなくて、合理的な選択よりも本能的な選択しかできない。そうなると、意志力が欠落していると大抵は怖くない方に舵を切ってしまう。
怖くない方というのは、経験則で楽な方だ。何もないとわかっていても、そうしているだけで何となく許されている気になる、その形骸的な継続という行為である。何かを続けることは良い、といいつつも縋っているだけの行為。
大抵は防衛本能なだけの気もする。だけど、そういくらわかっていても、わかっていてもダメだったというだけで自分が信じられなくなって嫌悪のループに入る。そうして新しいこと、意味のないこと、自分が好きなことをどんどん遠ざけてしまう。
だからもう、ここまで来たら自己啓発本を読むんじゃなくて休めと。そういうところに来ているのかもしれない。
色々と知った上で、それでも何かミスが発生してしまうのはなぜか。競技とかの視点で考えたら、それは学習不良だったり疲れによる不完全な意思決定でしかないのだ。目的や動機がはっきりしているから競技では「じゃあ休んで気を取り直そう」と簡単に納得できるけれど、人生は地続きすぎて、何がどう得につながるのかわかんない。だからこそ、無理に別の視点で考えてしまったり、もっと学びが足りないんじゃないかと思って、意思決定の失敗というプロセスから直接学ぶことができない。シンプルな解決策が信頼できない。
でも結局のところはシンプルなんだと思う。健康的な状態で、自分の意志決定をするというただそれだけのこと。それだったら言い訳も出ない。自己保身に走ってしまうのは大抵、疲れているからだ。自分の意志決定が何かに邪魔されたと思っているから、でも自分は悪くなかったんだと。しょうがなかったんだと、そう言い聞かせたいから。
ほとんど私が最近疲れているのは、やたらと感情やワーキングメモリを破壊してくる仕事のせいだと思っているが……この愚痴はいつかにとっておくとして、現実問題として仕事は簡単にはやめられないのだから、その中でどうやって私は生きたいように生きていくのか、というのを腰を据えて考えなくてはいけないと思っている。
最近は新しく、音楽って面白いなと思えて、趣味ができた。けれど、それを深めていく上で本当に、本当に重苦しく客観視が付きまとう。それをやって意味があるのか、という問いが。
聴く、歌う、作る、学ぶ。何にしても「もっと意味のあることがある」といういい加減な悪魔を払拭するのにあくせくしている。夢中になることが一番のスパイスだと思っているけれど、なかなか気が散ってしまう今の世の中である。
自分の意志で動けていないと、自然と抗えないものに対して責任を擦り付けてしまうようになる。例えば、この年齢から新しいことを学ぶなんて端から無理だったんだ、なんて。
しっかり休まる日も少ないから、それがおそらく間違っているんだろうと思い返すことも難しくなってきている。けれど今一度、やっぱりそれは違うって言いたい。私はいつまでだって、思い描いた自分で居られるはずなんだと。
一言で言えば、クリエイティブに生きたいなと、ただそう願っている。
ただ現代ではクリエイティブに何かをする段階は終わってしまっただとか、クリエイティブは金にならないだとか、夢の国も値上げばっかりだとか、そんな、そんなつまんないことばっかり言われて、自分もそれを信じてどんどんつまんない人間になっていってる。つまんないってなんだ、ただ新しいことや確証が得られないことに対してベットできない人間のことだ。
もっと根源的に、目の前の人を勇気づけるような何か、心揺さぶるような何かをしたい、という曖昧なマインドが私には必要だ。どこかで落としてしまったんだろう。でも確実に、昔からずっと忘れていない夢みたいに心の奥底に閉まっているだけだと思うから。
自分らしくありたいと願う。私は私の正義に従うのだ。